昭和48年5月15日 朝の御理解
中村良一
御理解 第7節
「天地金乃神は昔からある神ぞ。途中からできた神でなし。天地ははやることなし。はやることなければ終わりもなし。天地日月の心になること肝要なり。信心はせんでもおかげはやってある。」
信心はせんでもおかげはやってある。信心をしておれば、あー、そのおかげをやってあると仰るおかげを、はっきりと、いうなら、天地日月の働きのように間違いなく、頂きとめていけれるという事が信心だと私は思う。ね。おかげはやってあると言われても、それを、おかげをおかげとも感じきらなかった時代が信心の無い、または、信心の薄かった時代。信心が、段々、分かってくればくるほどしに、真に、一分一厘の間違いのない働きで、大天地は、小天地であるところの、私共の上に、えー、それこそ、天地の運行のように、ね。規律正しく、うー、それこそ、秩序を乱さずに、私共の上に働きかけれ下さる。それを頂きとめる、それをキャッチしていく、いけるのが信心だと。金光様のご信心だと。金光大神のお取次ぎを頂いて、日々、生活のおかげを頂いていく者の、おー、何というでしょうかね。特権というと、ちょっと言葉が過ぎますでしょうか、ね。金光大神のお取次ぎを頂いて、日々、おかげを頂いていく者の上に、特別にそれを、実感せずにおられないほどしの、おかげの中に生活させて貰う。そこに、神恩報謝の生活というものが出来るのであります。
昨夜、大広前を、おー、終わってから、昨日、大変疲れておりましたから、早く休まして貰うて、ちょうど、休みます前に、先ほど、善導寺の原さんのお父さんが、大変具合が悪くて、えー、お届けに見えましたという、上野先生から届けがあっておった。で、その事も、また改めてお願いをさせて頂いて、休んでおりましたら、あー、おかげを頂いて、折り合うたという事ですという、また、お礼のお届けがあった。同時に、吉井の杉さんが、お礼参拝して見えた、遅うから。それは、長男の奥さんが沖縄から見えております。あちらのほうへお産に帰っておられたところが、あー、何と、百人に一人しかないといったようなお産。もう、大変、主人になります、いわゆる、杉さんのご長男も、あちらへいっとられます。それで、手術しなければならんのに、主人が立ち会わなければ出来ないと言うよな事で、まあ、つい長くなっておられた。お母さん、毎日その事を心配してお話、あー、お届けがあっておりました。そしたらもう、お話を聞けばもう、何ていうですかね、この血液型が、百人に一人しかないという血液だそうです。ね。もう、それがもう、それは手術という時にもう、話を、まあ、昨日、ま、ざっと聞かせて頂いたんですけれども、それこそ、一分一厘の間違いの無い神様の働きの中に、おかげを頂いて、一月早く、無事男の子出産という通知があったから、えー、おばあちゃんが、とにかく早うお礼に出てくる、もう、そんなに遅うからでしたけれども、お願いは毎日、日々、やあや言うてしよりますから、早うお礼に出てくれと言うて、母が申しましたからと言うて、夕べ遅う、お礼に出て見えました。それから、んー、原さんのお願いをし、原さんのお礼のお届けをさせて貰い。それから、杉さんの、その事のお礼お届けをさせて貰うて、それからまた、一息休ませて頂いて、えー、私は、必ず、十二時から先に、ここにまた、もう一遍お礼に出てくるんです。昨日は、十一時、ちょっと早かった。ちょっと、心に頂いたこと、かかることもあるし、頂いたこともあったから、お礼に出てまいりましたら、ま、これは大広前の、この真ん中で、誰かが御祈念しとりますもん。誰が今頃参ってきとるだろうかと思うとったら、福岡の秋山さん所の娘婿であります島野さんであった。それで、末永先生が起されてから、あ、お取次ぎしよります。私は、寝巻きのままで、こう出てきとりましたから、あそこからお礼させてもらいよったら、えー、息子が、具合が悪いから、お取次ぎをお願いしますという事であった。本当に、そういう夜中にお願いに来た。私がお広前に出てきた、ね。間髪をいれず、一分一厘の間違いのない働きを、そこに感じますときにね。あ、おかげ頂くなという、おかげ、気持ちでお取次ぎが出来ます。これは、まあ、夕べ、ここのお広前を下がらせて頂いてからの、お願いやら、お礼やらの、おー、例を聞いていただいたわけですけれどもです。もう、本当に合楽の上にです。これはまあ、合楽の上ではない、金光教の教会の、全ての教会の上に、いや、信心はなくても、それぞれ、一人ひとりの上に、一分一厘の間違いの無い、天地の働きと言うものがです。あっておるのだけれども、それをただ、頂き止めて、止めて止めきらんでおるというだけの事。
先日から、皆さん、お話させて頂きましたですね。えー、久留米の井筒屋に、えー、六千万円の、その指輪が、宝石が出ていると。三億円のダイヤが陳列してあると。その特別の招待券を頂いてます、招待状を頂いてました。それで、それも見たいし、めがねを、おー、ちょっと、もう、度が合わなくなっておりますから買いたい。こういうのを買いたい、ああいうのを買いたいという、心に、まあ、描いておったものを高橋さんに話した。そんなら、只今から参りましょうというので、繁雄さんと私と、高橋さんと、おー、あちらへ参りました。勿論、えー、宝石展も見せて頂いて、あそこのめがね売り、前のもあちらでお供え頂いておりましたから、今度も、高橋さんおかげを頂きたいと言うて、一緒に連れて行って下さった。あちらのウインドウに入っております、私の、はー、こういうのも買いたいと思ったのが、丁度、そこ出てましたから、ちょっと取ってみましたら、えー、値段も案外安いしね。はー、こんなら良いかろうと思うてから思うた。ところが何と私、零(れい)を一つ間違えて、まあ、二万円ちいう事。ところが、実は二十万円だった。こら、いかになんでも、私は、如何に高橋さんがおかげを頂くと言われても、んー、二十万円ものめがねを、あ、これは私の分にも過ぎますし、ね。えー、過ぎると思いましてね。それから、まあ、五、六万ぐらいなのを見せてもらいましたけれども、どうも、あんまりぴったりとこん。けども眼鏡屋さんがいう事が、二、三日お待ち下さい、丁度あなたの仰るようなのが、入りますから、あー、そしたら、ご通知をしますからという事であった。それで、めがねの目の検査だけしてもらって、帰ってきよったら、あー、その翌日でした。翌朝です。竹内先生たちが夫婦でお礼参拝があった。もう、私、裏に下がっておりましたから、お茶を差し上げながら、昨日あなた、こうやって、宝石展を見に行きましてね。もう、三億円の、そのダイヤを見てきたり、六千万もする、その指輪を見てきたり致しまして、帰りにその、また驚いたことは、めがねが、とにかく私が買いたい、こんなのをと思いよったら、二十万もしますよという話をした。そしたら、竹内先生たち夫婦が顔見合わせてですもん、先日、家頂いておる、あなたがお頂きになったあれが、私は鼈甲のめがねを買いたい。あの鼈甲のめがねじゃなかったですか。どうだよ。なら、私に、どうせ、あれは合わないから、親先生にはめて頂こうか。勿論レンズは、あー、だけ変えていただきゃ良いから。そんならしばらくお待ち下さい。そりば買うのをやめて、その、それば見てからのことにして下さいという事であった。そうして、竹内先生達を送り出してから、私、ここへ、しとりましたら、あの、井筒屋からめがねを持ってきとるとじゃ。もう、ニ、三日のはずのつが、その翌日持ってきてる。そして、勿論、その二十万円のも、やっぱ持って来てましたし、十四、五万から、十二、三万のを、みんな持ってきてました。それで、あんまり気には要らんけれども、まあ、ほんなら、この十三万のに、大体決めておこう。けれども、昨日、えー、伊万里の竹内市長が見えてね、その、自分が頂いておるのがあるから、あの、はめてくれと言うて、お供えしたいという話があっとるから、と私が申しましたら、あ、こう言う高い物ですから、そういうあれがあるならば、それをお使いなさいませと。で、中のガラスだけお代えになったら良いですからという事でしたから、あの、わざわざ来て頂くだけで、けれども、そうして、あの、おー、ま、帰ってもらっておりました。そしたらまた、三、四日してから、電話が架かってきとるそうです。あのめがねは、どういう事になったでしょうか。向こうも、やっぱ、二十万からするとを売ることですからね。やっぱ、そがしこ気遣うて下さってる。ところが、実際は、まだ伊万里から来てなかったから、こりゃ、あーた、お供えじゃけん、こっちから催促するわけにはいかん。けれども、確か、十三日会の日に、十三日の日には見えると思うから、それまで待ってくれと、私はあの、電話で返事させとりました。そしたら、丁度、昨日、恵美子さんたちが姉妹で、お礼でてきとりましたから、こら、先日父が話しておりましためがねでございますと言うて、お供え持ってきたんです。そして私は、開けて見て驚いたんです、実際。これが二十万円のめがねです。ね。これでしょうが。もう、私が、十四、五万というのは、どうもあの、普通の黒白のあれであってね、どうも私、余り気に入らなかった。私はこれを買いたいと。けども、これは何と言うても、二十万もするから、私、高橋さんも手を出し切らん。私も手を出し切らんという感じであった。ね。ところが、実際、昨日持ってきて頂いて、はー、これこれ、これが私が買いたい、井筒屋の陳列に出とったのはこれだったと言うて、はめてみて、また、なお驚いた。めがねが、私の目がぴっちりなんです。ね。ちょうど繁雄さんがここへ見えられましたらから、「ちょっと、繁雄さん、見てごらん。こら、頂いたばい、二十万円のめがねが来たよ」と言ったら、「もう、おそろしかですね、神様は」「ほんとに神様は、見通し、聞き通しと仰るが、親先生ほんなこっですね」と言うて、もう、それこそ、繁雄さんは実際行って見てあるもんですから、ひとしおの感動でした、繁雄さんが。驚いてしもうてから、けれども驚くことはない。これはいつものこと。合楽におかげを頂いておる信奉者の上に、これとおんなじ働きがあってるんだと。これは、私の上だけのことじゃないのだと。先ほどに申しました、ただ、私が、このお広前を下がって、お取次ぎをさせていただいた、十二時ま、えー、九時から十二時までの間に、お礼のお届けやら、お願いのお届けやら、あー、させていただきました、あー、その事なんかのなかにもです。もう、それこそ、一分一厘の間違いのない働きの中にです。お取次ぎをさせて頂いておるという事が分かるでしょう。原さんのお父さんのこと。杉さんのところの、おー、いわゆる、百人に一人と言われるような、あー、難産が、安産のおかげを頂いたこと。それから、お礼に参拝してきたこと。それから、夜中に、えー、島野さんがお願いに来て、私が、お広前で、ちょうど出てきておるところに、私が夜中に、出てくるてんなんてんちいう事なんかも、一分一厘の間違いじゃない。それこそ、島野さん自身も、はー、おかげを頂いたと思うに違いはない。ね。私が、わざわざ出て、わざわざ誰かに通知を受けて出てきたごたる感じ。真っ暗い中で御祈念をしておるところへ、私が出てきた。ね。はー、おかげ頂いたと思うだろう。その、思う心がもう、おかげになるのです。ね。実を言うたら、今言うように、一分一厘間違いのない働きの中にあるけれども、それを実感しきらん。ね。おかげをいただきましてね。
高橋博先生の有名な言葉の中にありますように、ね。「お取次ぎを頂いて起きてくること、良いこと悪いこと、みな良い」という確信。「お取次ぎを頂かずして、起きてくること、良いこと悪いこと、みな悪い」と。これなんです。ね。それかっというて、ほんなら、私共がです、「天地日月の心になること肝要」と仰るように、それこそ天地の心。天は、与えて与えて止まない、麗しの心。地は、それを黙って受けて受けて、受けぬくところの心。いわゆる、ここで言われる天地。いわゆる自然の働き。成り行きを大事にして御事柄として受けていけというような生き方。しかも、日月の心。実意丁寧、この上もない実意の、いわば、生き方というものを教えて頂いておるんだけれども、私共は、もう、いつも、お粗末御無礼なことばっかりで、えー、相済まん事になっておるところをです、御道の信心によって、お礼、またはお詫びという事によって、そこのところのバランスがとれている。どんなに、お粗末御無礼があっても、詫びれば許してやりたいのが親心という、その親心に、私共が、ね。孔子が親を思うような、孔子親孝行の、言うならば心で、すがりもすりゃ、お詫びもする、お礼を申し上げるというところからです。ま、天地の運行の上に、間違いがない働きがあっておるのと同様な働きを、私共の上に現していくことが出来るのである。ね。そこで、ほんなら、皆さんには、それは、ほんなら出来ていないけれども、お取次ぎという働きの上に、一分一厘の間違いのない働きが、ね。ほんなら、ここでは、合楽の教会長である私の上に、今、聞いていただきました、ね。夕べから、お取次ぎさして頂いたり、なら、このめがねのことやらから、聞いていただいてです。そういう働きが、私の上にあっているという事。例えば、ほんなら私が、朝の御祈念のときに、ね。きちっと、例えば、一時間なら一時間、ね。こら、時計を見ながら御祈念をするならばですたい、願うことは毎日違うのです。ね。それでもです、それこそ、さあ、五分遅れた、五分早かったという事はあってもです、その五分の、例えば、間違いのところを、私は詫びている。ね。五分の間違いのところを、私はおすがりをしている。ね。そして、私の上に、一分一厘間違いのない働きが起きておらなければです。安心してお取次ぎが出来ない。ほんなら、お取次ぎを頂いて、皆さんの上に現れてくる、良いこと悪いこと、全てがおかげである。先日もあの、地球儀をお供えを頂いた時に、文雄先生が説明しておりましたように、ね。もう、それこそ、あの、地球上の上に、降ること照ること、吹くこと、様々ありますけれども、ほんなら、大嵐といったような事ですらがです、ね。天地の親神様の切なる神愛の現われだという事を話しておりましたでしょう。ね。ですから、私共の上にです。まあ、生きる死ぬるは勿論のこと。暑い寒いのこと、全てのことがです、ね。天地の働き、神愛の現れである。その神愛の現れをです、私共が、お取次ぎを頂いて、お取次ぎの働きを受けながら、一分一厘間違いのない、天地の働きの中に、私共、小天地の、私共の働きというものが一緒になっている。そこの確信が出来たとき、私共は出来ません。それこそ、天地日月の心などという事は、大変な難しいことだけれども、合楽で言われておるような、いうならね、成り行きを尊ばしてもらう、大切にさせて貰うというような生き方。しかも、日々お取次ぎを頂いて、お願いをして行くことですから、お願いをしておるとに、どうしてこんなことというのはない。どうしてこんなと思うような事柄の中にでも、お取次ぎを頂いて起きてくること、良いこと悪いこと、みな良いという働きを受ける事が出来る。信心はなくても、世界中の氏子におかげはやってあると仰るけれども、そのおかげをおかげと感じきらんのが、信心のない人達である。なら、信心をしておってもです。真のお取次ぎの、例えば、働きを信じけれない人の場合はです。これだけ信心するのにとか、ね。お取次ぎを頂いておるのにこんな事。こんなこと、自分の思うようにならなければ、おかげで無いような思い方は間違い。もう、一分一厘の、間違いの無い働きの中にです。私共があることを思うて、それは、ほんならば、ね。本当に、撫でさすりされるような時もあろう。叩かれるような事もあろう。けれども、その叩かれるような事でも、撫でさすりされるような事でもです。神様の、一分一厘間違いの無い働きであると分からせて貰うて、お礼を申し上げるような心にならせて頂くとです。ね。その、如実に、私が、なら、日々、現しておりますようにね。一分一厘の間違いのない働きと。それこそ、繁雄さんの言葉を借りすならです。もう、神様の働きちゃもう、恐れ入るもう、おそろしかですねというような、おかげの中に、日々、過ごしていくことができるのです。今日は、天地日月の心になること肝要だという事をね。今、申しましたような角度から、今日は聞いていただいたわけですよね。どうぞ。